まさかの友人とばったりww

今日は VIC TOKAIの会社説明会に行ってきました。

とても、興味深い企業で、行きたくなりました。

ただ、先輩社員の話を聴いていて、意外に「かむな〜」と思ったのは秘密である。

さて、さっきまでずっと、明日のゼミ資料を作ってました。

ただ、今回は買った本の内容要約の形になってしまいそうです。


というわけで、ゼミ資料を書きました。

寝そうな頭で書いたので、かなり危ない内容になっているっぽい!?


あ、あと、名鉄さんとは縁がなかったよ。

くそぉぉぉぉぉぉおおおおおおおおおお!!!!!!


明日は怒られよう。うん、しょうがない。こんなゼミ資料じゃなぁ?



4月18日 ゼミ資料

情報社会についての考察を「インターネットは『僕ら』を幸せにしたか? 森健著」から考える。

筆者が考える主な情報社会の側面
・ 自由意志統制のインフラになりうる情報社会の危険性
ユビキタス社会がもたらす個人DB監理という危険性
・ 安全対策と集団管理、リスクヘッジの危険性

主にこの3点に絞られる。
自分の主観を交えつつ、これらの説明を行います。
まず一つ目の危険性から


自由意志[統制]のインフラになりうる情報社会

情報社会が確立してきて、個人がWebを利用して様々な情報を取得し、サービスを享受する時代になって、既存のメディアから明らかに突出して進化を見せているのがインターネットというメディアである。
TV、新聞、雑誌、ラジオ等、これらのメディアはある程度享受する態度というのが確立され、それらのメディアが提供する情報を、自分の趣味趣向というベクトルで受け取ることをしている。受動型という形である。
インターネットが発展して相互に情報のやり取りができるようになり、自分がWeb上では自分が主体的に情報を取得することが可能になった。RSSの機能、趣味趣向で選ぶポータルサイト、これらを駆使することによって、自分が望む情報だけを取捨選択して利用することが可能になった。

SNSやBlog(WeBlogの略称)には、こういった自分のエージェント(カスタマイズされ、自分が望むものを自動的に取捨選択し、提供してくれるサービス)といった機能が多分に含まれることになる。
Mixiでみてとれる。参加者が気に入ったコミュニティに参加し、それらの情報を得ることは、ある意味取捨選択された情報を自動的に分類し、自分に提供してくれるサービスと考えることができるであろう。SNSの例は筆者の考え方を紹介するときに、一つ目の例としてわかりやすく「スモールワールド」を形成することを表す。自分にあう人間同士のつながりを仮想空間に形成し、ある種1つの小さい集団として、ひとつのまとまりを形成する。こうした場合、その空間は閉鎖的性質を帯び、外部をある意味遠ざける性質を帯びるわけである。



また、Blogにおける小集団化が挙げられる。「クラスター化」と称されるそれは、Blogという存在自体にみることができる。
Blogを書く意義とはなんだろうか?日記?活動記録?意見表明?どれもある人にとっては見る価値のある情報だが、ある人にとっては見る価値のない情報である。社会に対しての意見表明をする人意外の活用方法とは、SNSとなんら変わりない、小集団に対して行われるもので、これはスモールワールドを形成する1つのインフラになる。では、意見表明をするBlogの存在意義とはなにか。1つのことに対して意見を述べるとき、その人は何らかの情報を得て記録することになる。そういった場合、そのBlogを見る人は、同じ趣味趣向を持ち、その意見に対して何らかの感想を持つ人、となる。

このとき、そのBlogに集まる人間には、厳密なつながりなどなくても、意見、意思という1つの概念で小集団が確立される。これはSNSなどのスモールワールドよりもより大きな小集団として存在することになる。しかし、意見の一致や、排他性という性質をいまだ強く残した存在であることが前提となる。嘉手納空軍基地のF-22配備の例を以前取り上げたことがあったが、賛成派のBlog投稿と反対派のBlog投稿はほとんど接点を持たないまま、両者の小集団を確立していった。排他性をもったつながりの現出が実例を通しても見て取ることができる。

アルファブロガーという人がいる。梅田望夫氏など、Blogに数多くの読者を持ち、影響力もあるBlogを書き続ける人のことである。やはり、インターネットの社会にも、中心人物について集団を形成する傾向がある。もし、Webに肯定的な人に、Webに対して危機感をひたすら突きつけるようなことをした場合、間違いなくその小集団によって排他、淘汰されるだろう。そういう意味での集団を形成することがインターネットではありえるのだ。さらに、それをつなげるのは、「意思・意見」というものなのである。

そこで、1つ問題になってくるのは、今後の情報量の劇的増加が与える小集団への影響である。このときの小集団は共通の「意思・意見」を持つ閉鎖的集団を例と考える。

SNSRSS、Blogをつかって、個人はより機械的なサービス(エージェント機能)に依存した情報収集に頼らざるを得ない。検索とは、そういう個人のエージェントが情報収集する結果、よりどころが多いところこそ上位に上がり、新しい意見など、下位にしか存在しえなくなっていくだろう。簡単に言えば、急に個人がBlogで適切でない表現をしたとして、取り締まるのはプロバイダが走らせるスパイダーのようなソフトが勝手に発見して勝手に削除するようなものになってしまう。個人の意見は、誰にも気付かれずに情報の海の塵になりかねないのである。情報量の激増とはそういうことを意味する。

こうなった場合、スモールワールド内では、趣味趣向のあうもの同士のコンテンツについては、今まで以上の高価値が付与され続けることになる。小集団の意識形成はより強固なものになり、個人が興味のある情報というのを、その個人はどんどん手に入れられるようになる。ここには、商業利用の可能性も、技術進展の可能性も、いろいろ含まれることになる。そこには、もちろん懸念となる可能性も存在する、と心理学者などが指摘する。

・ 多数の言語、思想、文化などが存在し、それらの違いによって多数の集団が形成。異なる集団動詞の相互理解はより困難になりかねない
・ 主体的な情報選択によって、情報が固定化されて、本来、社会全体が持たなければならない情報が行渡らなくなる
・ 民主主義的な自由意思形成が行われなくなる(多角的な情報を取得することが困難になってしまう現状が原因)

 もちろんこういったことは極論とし片付けられなくもない。しかし、Web上では自分の好きな情報、信じたい情報については取り入れ、嫌いな情報や対立する情報、触れられたくない情報についてはきわめて不寛容な態度をとる傾向が「同類志向」という現象を考え合わせると、容易に合点がいく。こういう現象を「集団分極化」という。

 集団分極化:グループで議論すれば、メンバーはもともとの方向の延長線上にある極端な立場へとシフトする可能性が大きくなる現象

 小学校のいじめとかの例を考えるとよい。一人の中心人物がいじめの対象を決めると、その行為がエスカレートし、クラス全体が極端ないじめへと発展させるのは、社会現象のように、近年語られるようになった。こういったことが議論ではよくあることなのである。フェミニストの過激化とかもあるようである。

 自由意志が統制される、という現象には、様々な要因がかかわる。
・ 意思決定の外部性が存在しない
・ 情報外部性が取り入れられ辛い環境が形成される
沈黙の螺旋現象(小さい意見は意味がない<中心人物のみの発言が重宝)
・ Webにおける自己組織化(意識の問題)

 これらの現象を、Webというシステムは助長させてしまうという懸念がこの項目の危険性の根底にある。インターネットを利用して社会が変わろうとしている今、増え続ける情報量を処理するには、ある程度の取捨選択は必要であるが、今の状況では好ましくない、ということを述べている。具体的なイメージさえつかめれば、個人的にこの状況に似た何かを感じることもあると思う。
 そこを考慮に入れて、一度情報というものの取り扱いを考えてみることが、集団分極化に対する改善策を模索していくべき、という考え方である。
 ここにあるのは、意思決定についての危険性をただ、示唆した内容に過ぎない。