というよりは報告?
な感じで、今日So-netにEntryしました。
書類選考に通るかどうかは、25日以降に決まるそうです。
まぁ、落ちるでしょうけどww
というわけで、今日はバイトがないため、昼からDVDを見てました。
以前大学から拝借してきたあれです。
- 出版社/メーカー: アイ・ヴィ・シー
- 発売日: 2000/11/25
- メディア: DVD
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このドキュメンタリーDVDは、前提知識として、アイヒマンに関する情報を持っていないと意味のわからない内容になっています。
ドキュメンタリーということで、実際の記録をもとに制作されています。
アイヒマンという人物がいかに凡庸的であるかがわかります。
禿げていて、近眼で、ひょろっとしたイメージの、凡庸な人間であるのが、とても理解できます。
- 作者: ハンナ・アーレント,大久保和郎
- 出版社/メーカー: みすず書房
- 発売日: 1969/09/21
- メディア: 単行本
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とかみたいです。ちなみに自分、今読みかけでとまってます<申し訳ない(誰に!?)
さて、アイヒマンという人物、ナチス中佐で、ユダヤ人問題の最終解決として「スペシャリスト」と呼ばれていたことから、このタイトルになったようです。
ユダヤ人移送のダイヤなどを組んだ人で、彼らを死地へ追いやった張本人でもあります。
ただ、最初に言っておきたいことは、日本人がこれを見たとしても、そういう事実しか受け取れない節がある気がする、ということです。
ユダヤ人問題を客観的にしか知らない日本人には、すべてを感じることは難しいだろうな、ということを見ていて感じました。
この映画が記すのは、「現在に出てきた『新しい形の悪』」です。
彼は、ユダヤ人を死地に追いやる指揮をとっていながら、その移送先は知らないといいはり、責任は自分にはない、と言い張ります。ユダヤ人にとっては、許されない発言だったと思います。実際、映像内では傍聴席から叫び声がして、法廷の場を乱したとして、何人かが退廷させられ、それを機会に閉廷したシーンもありました。
この映像のなかで、「命令」という言葉が何度も出てきます。彼は「上司の命令に従った」「上司に命令を仰いだ」「命令には規則を持って行った」と、常に『決定権は自分にはなく、上の命令に従った』という発言を繰り返します。
検事はこれに突っかかり、アイヒマンは事実はこうだ、と言い張る。
決して責任逃れをしようとしているのではなく、自分は考えず行動をしただけであることを主張する。
アレントは結局こういったことをただの「労働」と位置づけた。
今私たちがしているかもしれない労働である(自分のやっているバイトとかはかなり労働っぽいと感じるww)。
この事件を「人類史上最悪の犯罪」の内に入る大犯罪であることを認めつつ、しかし「責任はない(責任は命令を出したものにある)」と言い張る彼は、凡庸な悪であった、と称される。
つまり、上の決定権を持つ人間の命令従うことで、自分は「機械の一部(部品)」であることを認識し、自分の主張を無視した状態で行われた犯罪を行ったただの人間だ、ということになる。『悪』は悪いことをした人間がそう呼ばれるべきもので、アイヒマンのような、意図的ではない「悪」を「悪」と呼ぶべきかどうかは確かに理解しづらい。
ここで、機械の一部(部品)といったのは、人間一人が機械のようにひとつの仕事を受け持っていたわけでなく、組織が全体的にひとつの目的を遂行する機械となり、それを構成する部品に、人が対応している状況を表したかったから、こういった。
実際、このような考え方が一般である。
凡庸悪とは、こういった「すべての人が起こしうるかもしれない犯罪」というものだ。
アイヒマンの場合、考えなければならないのはその点だけでなく、事後法による裁きを容認するか否か、も問われた。
第2次世界大戦中、第3帝国のドイツでは、犯罪が合法化していた時代だった。本来、法とは人の倫理観を源泉とした普遍的に道徳的でなければならないはずだが、戦争というご時世が、法律を規則にまで貶めてしまった。違反者には死、という付加効果を持って、そうなってしまったのは、ただ、戦争だったから、としか言えないのも事実である。
さて、ここまで語ってきて、自分はかなりアイヒマンという存在に興味を持っていることを再認識している。
最初は大学のゼミで取り上げた程度だと考えていたのだが、この『例』というのが今日でも生きていることが見て取れることを考えると、自分はかなり興味を持ち始めているといわざるを得ない。
最近でこそ、赤福問題や白い恋人問題などで、インサイダー告発が行われてきたが、それまで、誰も何も言わずその企業が一体となって「悪」を体現していたことは明らかなのだ。
こういうことは露見しにくい。そういう問題定義を今から60年前には行っていた、そう考えてこのDVDを見たとき、「自分は悪なのだろうか」ということを考えざるを得ないのがなんとも心苦しいところである。