さて、ちゃい教授がいうにゃ、市民性というやつは厄介だがね。
しかし、この話はスルーします。
でも、今日のゼミでの発言といい、自分はいつまで幼稚な発想を口にしてしまうのだろうか?
考えなしに喋りだす癖を何とかしないと、「こいつ、なんとかしないと」感が出てましたねww
という具合に、今日のゼミは恐ろしくはっちゃけました。
つまり、ポカーンとさせてしまいました。
愉快だ、実に愉快だwwもう、やめてぇぇ〜〜。
とひとしきり、思ったことを書いたところで、小休止。
今日思ったことを書こうと思う。
義務教育は学力強化?精神力強化?コミュニケーション力強化?
生きる力強化?倫理観強化(植え付け)?道徳?
道徳は知識である、という話はぼくは賛成である。
今日のゼミでの話で言えば、道徳もマテリアル化して、伝えるべき、まぁ、端的にいえば形式知としてこどもに教えるべき、みたいな話が出てきたが、
道徳は形式知として扱えるのか?そもそも、判断基準が人によって違うものを、客観的に形式化できるだろうか?
たとえば、今流行のHOME LESS 中学生の判断基準から言えば、深夜、だれもいない道に100円落ちていたとしたら、拾うだろう。だが、それは決して正しいことではない。しかし、切羽詰った状況を省みると、仕方ない感じもする。HL中学生は、それが所有者を失ったお金で、捨てられたコンビに弁当と同じ感覚で扱うのかもしれないが、裕福な家庭からは、たかが100円なんて、交番にも届ける意味の無いくらい、小さいお金、とみなしてしまうかもしれない。これも決して正しいことではない。
そういう自分は、なぜそういうことを正しくないと言い切れるのか?
経験だろう、とぼくは思う。
つまり、道徳を形式だった価値観というのに押さえつけたところで、判断基準によって、変換させてしまわないだろうか?と思うわけだ…。
道徳も、暗黙知の積み重ね、経験が判断材料として蓄積した結果ではないかと…おもうわけだ。
どう思うわけだ?ぼくは?
やめます。
またよくわからなくなってきた。こういうのは言葉が達者になってから書きます。今日のはあくまでメモメモww